▼ 脳で見ようとするのか
何が大切なのか、見抜くかどうか・・・。
観察することが癖になっている子は、新しいことをやり始めたときに、観ただけでできるようになっていきます。それはそこで起きている現象そのものを眼で見ているわけではなく、「なぜそうなるのか?」と脳で観て本質を見抜こうとしているからです。無意識に観察して、本質を見抜く力。
本質を見抜く力というのは、洞察力が育まれているのかどうか?ということ。そこにある新しいことを観察して、何が起きているのか?なぜそうなるのか?脚は?体は?目線は?重心は?・・・etc何も聞かなくても、1つひとつのポイントを追わなくても、
眼で見るのか?
脳で見ようとするのか?
▼ 観察する癖
人は赤ん坊の頃から観察することによって、物事や表情、言葉を急速に学んで行きます。子ども達を観ていると、小さい子ほどその力を持っているのがわかります。
しかし、小さい時から懇切丁寧に大人が何でも教え、先回りしていると、早くできるようになっても、教えなければ、その枠以上のことはできないケースは多いです。そこに見抜く力は育っているのかどうか・・・。「観察するな」と言っても観察してしまう癖が”消されていない”のかどうか・・・。
もし、小学生が海外の練習に言葉の分からないまま参加したなら、当然説明は不明・・・。そんな時、「練習内容、動き方、体の向き、パスの強さの意味、ルールの制限・・・etc」を理解するために、眼で観察して脳をフルに活性化させるのではないでしょうか?眼を見ることだけに使わずに、脳のスイッチとして必死に観察するでしょう。英語の「see」は「見る」という意味だけではなく、「I see」=「わかった」という意味があります。
必死に課題をこなしていると洞察力は育ちません。上手くやっているように見えても、指導者や親の要望・課題を全力でこなしているだけという可能性は大いにあります。大人の仕事の世界でも、同じことを観ているのに、「観たままに捉える人」と「本質を見抜く人」によって違いは生まれていきます。
▼ 見抜く力を育む
観たことのないことをさせた時に、何が育っているのかが見えてきます。人より早くできることは、いいことかもしれない・・・でも、人より遅くできたことがもっと大きなプラスを育てていることは多いです。指導者は、早くできる子が凄くて、時間のかかる子がダメとは、少しも思っていません。その子がどう思っているのか?そこを観ています。
▼ 至らないから子どもは成長する
親は、周りの子の凄い部分だけを観て、自分の子の至らないところばかりに目がいってしまいがちです・・・。ついつい、我が子のミスがないように、親がミスのないように先回りしてしまう。でも自分自身で、ミスして仲間に迷惑かけたと思える心が育ってきたなら、俺は仲間に迷惑かけないぞ。仲間のミスは助けられる力をつけるぞ。という心が育ちます。そういう心が育てば、周りを気にすることなく自分自身で磨いていきます。
親が他の子のミスに寛大な気持ちで観られるなら、周りの保護者も我が子のミスに寛大に見守ってくれているものです。
我が子に寛大な気持ちを育てたいなら、親が寛大な気持ちで行動する。
我が子に思いやりを育てたいなら、本当の思いやりがどういうものか親がいつも感じさせてあげる。
我が子に楽しさを教えたいなら、親が毎日を楽しんでいる姿を感じさせてあげる。
我が子に落ち着くことを教えたいなら、親が落ち着いておおらか気持ちで見守ってあげる。
我が子に洞察力をつけたいなら、親が洞察力のある話をする。
親としては、どんな思いを持った子に育ってほしいのか?そこに愛情を持って導いてあげてほしいです。「自分はやっていれば、必ずできる力があるんだ」そう思える自己肯定感を育んであげることが、親から子への最大のプレゼントになります。完璧じゃないから、子どもです。至らないところがあるから、子どもです。
あくまでも子どもたちの関係の中からしか育たないものがあることを、大人は忘れてはいけないと思うのです。